名前で呼ばれ、招かれている喜び
聖職候補生 ヤコブ岩田光正
「時は満ち、神の国は近づいた」。
このように福音の宣教を開始されたイエス様は、早速、四人を弟子に招き入れました。いずれも漁師のシモン、アンデレ、そしてヤコブとヨハネです。「わたしについて来なさい」。ここで大切なこと、それは、イエス様は湖畔を歩いて、一人一人の名を呼ばれたであろうということです。イエス様は、招く時、いつも1対1です。取税人レビを召された時も、井戸端でサマリアの女と話された時も、いつも1対1でした。確かに、福音書の中にイエス様が集団に洗礼したとか、回心させたとの記事はどこにもありません。イエス様はいつも一人一人を大切にしてその名で呼んでおられます。それはヨハネ福音書十章で、羊飼いが羊の名を一人一人呼んで連れ出していくのに似ています。そしてこのことを私たちは決して忘れてはなりません。イエス様は二千年の時をへだてた今もなお、私たち一人一人を、しかも親しく1対1で名前で呼び、招き、導いて下さっているということです。イエス・キリストにおいて真の救いは、いつもその人の名前を呼ぶ瞬間に始まります。名前が覚えられること、それが救いです。わたしたちはすでに名前を覚えて頂いているのです。
しかし、このイエス様の招きは、ただ恵みと救いだけに留まるものではありません。イエス様は、彼らに言いました。「わたしについてきなさい」。招きと言うものは、その招いて下さった方に対して答えなければなりません。それは、ただわたしを信じなさいではありません。信じることは「従う」ことも含まれているのです。
ところで、「この子はよく言うことを聞く子だ」という言葉があります。その時、「聞く」とは、ただ発声を聞いて、頭で理解していることではありません。親の言うことを聞くとは、その内容を把握して、自分の意志に従った行動をすることを意味します。なるほど、キリストの言葉は聞くことから始まります。しかし、優しく名前を呼び掛けられ、その言葉を聞く時、「聞くのみで行わない」ということはありえません。それなりの行動をするのが当然です。しかもその言葉は救いそのものなのですから、なおさらです。
私たちは、それぞれに招かれ、そこに救いを見いだしたからこそいまこうして大津聖マリア教会に連なっています。つまり、イエス様に「従った」のです。これは、ちょうど今週の福音の中の、シモンとアンデレ、それにヤコブとヨハネの四人がイエスに従ったのと同じように、です。「いや、自分は四人とは違う、彼らのように全てを捨ててまで、従っていませんから」。そのように感じる方もおられることでしょう。それでは、「捨てる」とはどういうことでしょうか。確かに、「従う」ことは何か捨てることを伴うものです。しかし、ものは考え様です。即ち、何かあるものを捨てることは、何かあるものを得ることでもあります。さて、神様は、彼ら四人の弟子に代表されるように普通の人を選ばれました。一二弟子は全員普通の人でした。
そのことは、イエスの弟子となることに人間の資格は一切問題にならないことを意味します。逆にそれらへのこだわりを一切捨てることで聖霊の出来事が起こるのかもしれません。ですから、イエス様にあっては「捨てる」ことは「生かす」ことと同じです。そして、「捨てる」ことは、もう家族を顧みないことではありません。むしろその逆です。何故なら、今日の福音のすぐ後に、シモンのしゅうとのいやしの場面が出てくるからです。
召された後も、四人の弟子たちは、イエス教という集団の中に入り、世俗と交渉を絶ち信仰生活をしたわけではありません。むしろ、罪に満ちた世俗の世界の真っただ中でイエス様と生きました。
弟子となることは、罪の世界の中で、イエス様の恵みと救いの証しをたてることです。というのもイエス様こそ敢えて罪の世界に生き、罪の渦巻く中に十字架を立てて下さったのです。信じること、それは世俗の世界、罪の世界に入って行くことが必ず伴うものです。しかし、私たちはいつもイエス様の恵みの御手の内にあります。
最後、大津聖マリア教会の新しい年が始まりました。イエス様のここ大津での招きは、百二十年前に遡ります。私たちは一人一人、イエス様からそれぞれ名前を呼ばれ、集められています。これからも私たちはここ大津の地で一人一人の職業や立場、世俗の中でしっかりと生きつつ、祈りの内に、聖霊に守り導かれて神様の救いと恵みを証しし、イエス様の十字架を掲げていきたいものです。